そこに招かれたのは知り合って二週間ほどたった、曇り空の日だった。  広い敷地には、ぼくなど名も知らないような木々や草花、赤レンガの屋敷の壁はところどころ蔦に覆われている。  大きな扉を抜けて通された屋内は、薄暗くカビ臭い空気によどんでいた。擦り切れた彫刻のある階段を昇り、彼の部屋にはいる。  ぼくは香りの洪水に遭ってしまった。香水、いや、線香、でもない。 「これ何の匂い」  彼の顔にかすかな笑みが浮かぶ。 「『お香』だよ」 「へえ、お香か。アジア系の趣味なんだ」 「そうじゃないけど、なんとなくおちつくから。そうだ。そのソファーにでもすわってすこし待っててもらえる。ふだんちょと見れないもの見せてあげるから」  彼の声さえも響かせる静寂のなかに、階段をおりる足音がすいこまれていく。  ぼくはどっしりとしたソファーに座り、片づけられた広い部屋を見わたした。  古風な、彫りのはいった机やベッド、いくつもの硝子戸のついたひどく大きな本棚、分厚く刺繍された重そうなカーテン、有名な画家の作品らしい額縁に入った水彩画、岩を割って芽吹く緑。頑丈そうな応接机に向かいのソファー。薄暗い部屋に香の香りと同じに馴染んでいるように感じられる。  本棚にはたくさんの本が並べられてはいたが、そこはそれよりも彼の所蔵品の陳列棚になっていた。硝子戸ごしに中をのぞいたぼくは、いくつものオルゴールを見つけた。オルゴールに興味はないが、彼がどんな本を読んでいるのかというのには興味がある。  ざっと眺めてみると固い本ばかりだ。雑誌やマンガは一冊もない。ぼくはおとなしく座っていることにした。  しばらくして彼が重そうな長四角の古い木箱を抱えて戻ってきた。彼はそれを慎重に応接机の上におろす。 「何だと思う」  表面は鏡のように磨かれ、木目が落ち着いた模様になっている。  何だろう。価値のある骨董品なのだろうと いうことぐらいしかわからない。  彼は箱を開けた。 「オーバチュア・ボックスっていうオルゴールだよ」  初めてこんな大きなオルゴールを見た。  中には直径十センチはあろうかという金銅色の円筒形。少なく見ても数千本以上の細かいピンが産毛のように生えている。それを弾く櫛歯は、少し隙間をもって並び、先端は針よりも細い。細かい部品の一つ一つがわずかの食い違いも許されないような精密さに見える。よく手入れされているらしく、薄暗い部屋のなかに暖かみのある美しい光沢を放っている。 「鳴らしてみようか。でも最近調子悪いんだ。 壊れかけてるのかもしれない」  そこからはさまざまな旋律の響き合いが調和の取れた深みのある楽曲となってあふれ出してきた。  彼は向かいのソファーで目を閉じてリズムを取っている。  美しく光沢を放つ金属の部品の組み合わせが木箱の中で回転したり跳ねたり振動したりしている。無関係に見える小さな動きもみな影響し合っているのだろう。もしこれらの一つでもなくなったらこの場の雰囲気がすべてダメになってしまうのではなかろうか。時々微かに聞こえる金属の軋む音や擦れ合う音さえも欠けてはいけないもののように感じられてしまう。  薄暗い部屋は香の香りとオルゴールの演奏に満たされている。  ぼくは圧倒された。